かつて映像化が不可能だとさえ言われたフランク・ハーバードのSF大河文学、「デューン 砂の惑星」(早川書房刊)があります。イタリア映画界の著名なプロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスは、当時「エレファント・マン」(1980)で称賛を浴びた才能あるデヴィッド・リンチを招き、長年の構想を経て、この著作の映画化を実現しました。
リンチ監督の長編第三作目であり、初めてのSF作品となった「デューン/砂の惑星」(1984)は、製作費4000万ドルを回収することができず、赤字に終わりました。評価も良いものではありませんでした。監督自身も認める失敗作であるこの作品には、多くの時間と労力、そして監督の情熱が注がれていました。
原作者ハーバードは、1963年から翌1964年にかけて、「Dune World」を米アナログ誌に連載しました。さらに1年後の1965年には、その続編「The Prophet of Dune」を発表し、これら2作品を合わせてシリーズ第1部「デューン 砂の惑星」を出版しました。砂の惑星「アラキス」を舞台に封建的な政治体制を描いたこの著作は、その規模の大きさと設定の複雑さから文字通り映像化が不可能だと言われており、何度も映像化が試みられましたが、毎回プロジェクトは頓挫していました。
映像化が初めてアナウンスされたのは1971年です。「猿の惑星」(1968)のプロデューサー、アーサー・P・ジェイコブスが原作小説の映像化権を取得し、企画が進められようとしていました。しかし、彼が企画初期の1973年に急死したため、プロジェクトは実現せずに終わりました。その後2度目のチャンスは、「エル・トポ」(1970)で知られるアレハンドロ・ホドロフスキーに渡りました。
ホドロフスキーの下で集まったクリエイターたちは非凡な才能を持っていました。後に「エイリアン」(1979)で名声を得る造形作家H・R・ギーガー、同じく「エイリアン」の脚本家ダン・オバノン、音楽では世界的に有名なサイケ/プログレロックバンドピンク・フロイド、キャストには「市民ケーン」(1941)で知られるオーソン・ウェルズやスペインのシュルレアリスト作家サルバドール・ダリなどが含まれていました。
しかし、ホドロフスキーの構想は非常に大規模であり、原作の密度を忠実に反映させるためには上映時間が12時間も必要でした。この途方もないスケールの構想は、資金面の問題から撮影開始に至らず、頓挫しました。この事の顛末はドキュメンタリー「ホドロフスキーのDUNE」(2013)で確認できます。
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